結論
自分には合わなかったらしい。(なのでこの本が大好きな人は以降読まないでください)
Amazon.co.jp: Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA) : 円城 塔: 本
前提とか
異常論文というアンソロジーが Amazon のおすすめ欄に出てきたところから話します。
Amazon.co.jp: 異常論文 (ハヤカワ文庫 JA ヒ) : 樋口 恭介: 本
なんでかもう覚えてないのですが、この「架空の論文のていで書かれた短編小説」というのがすごく面白そうに見えたんですよね。
アンソロジーなので、いろんな作家が書いた作品が載っていることになります。なのでここから「日本のSF小説」の世界に入るのも良さそうだなと思いました。
それで買ったのですが、まずこれの冒頭(巻頭言と銘打ってある)を読んで「あっ…(察し)」となったんですよね。
といってもこの巻頭言を書いたのは本エントリーのタイトルにある本の著者とは違う人です。
こういう言い回しです。か〜っ、しゃらくせぇなぁ
まぁ実際この人炎上しましたからね。(気になる人はググってください)
こういうのを手癖として駆使したであろうひたすら「ドヤ顔で書いてそう」な文章が並んでて、700ページ近くある本の9ページ目あたりで後悔し始めました。
ただ、その次の1本目の作品「決定論的自由意志利用改変攻撃について」は個人的には面白かったんですよね。
本当に「異常『論文』」といった感じでそれっぽい式がいきなり出てきて、物語中の式変形はちゃんと形式的にフォローできるようになってて、文体もドライでさっきみたいなクソ寒いポエムじゃないし面白いなぁと感心しながら読みました。
それ以降の作品はもう本当にピンキリで、例えば「一般公募の作品でこれがデビュー作」として紹介されている作品は「あ、頑張って難解な表現使おうとしてるな??」とかそういうのがわかっちゃう感じもありました。まぁ私自身もそういうので遊んでましたからね。だからこそある程度の手口はわかってしまうのかもしれない(進次郎構文)。
あとはまぁSF作家界隈の馴れ合いというか内輪ノリみたいなのが多くて、ちょっとキモいと思いました。ですがこれは私が初手で「身内の作品集」であるようなこのアンソロジーを読んだからだとも思います。楽屋ネタはその芸人を知ってるか知らないかでかなり感じる面白さが変わりますからね。
なぜ今の前提が必要だったのか?
で、直前にも書いた通り、読み進めていくうちにある程度「日本のSF作家界隈」のパターンがわかってしまって、それが「巻頭言」のあのスタイルだということに気づいてしまったんですよね。
冒頭に貼ったリンクからレビュー欄に投稿されている★1のレビューを見てもらえればある程度雰囲気はわかると思います。まぁ載ってるレビューは全部基本的に言い過ぎですが傾向は感じ取れると思います。
そういう流れもあり一番最初の短編だけ面白かったなという記憶だけ残ったので、その著者である円城塔のデビュー作だという「Self-Reference ENGINE」を読んだんですよね。
最近短編集をメインで読むようになったので久しぶりに長編を読みたい、という意図もありました。
感想
結局のところ、さっきのアンソロジーで多数見かけた「あっ…」な手法のオンパレードでした。想定外でした。
いや、この文体であることはAmazonのページで立ち読みできる範囲内で気づけるのですが、それは最初だけのことかもしれないとなぜか勝手に期待していたんですよね。でもそんなことはなかった。
全体の構成としては長編ではあるんですが、章別に一気に場所や誰の一人称視点なのかが入れ替わっててなんか短編集みたいな感じです。(でも章別で得られる情報が少なすぎるので決して短編ではない。何もわからない雰囲気に酔いしれたい、ってスタンスなら別ですが)
いくつかのアイデアは「なるほどね」と思わせられる「良い設定」だったりするのですが、なんか舞台設定である「因果がはちゃめちゃになった世界」に甘えて細部を誤魔化しすぎじゃない?って思ってしまいました。
あと地の文が多すぎて、全部「設定集」に見えるんだよなぁ(って言おうとすると「いや、因果がはちゃめちゃになった世界なんでそれが当然なんですよ」って反論されそうなのがちょっとムカつく)
それに登場人物が「リチャード」とか「ジェイムス」とか「リタ」とかなんですが、発言がアニメやゲームのセリフ口調なのと地の文から漂う「ほぅら手の込んだ『日本語』ですよ〜」って空気の影響なのか全部和製RPGにありがちな「どう見ても日本人顔だけど名前だけ欧米風、しかも髪型は常にばっちりセットされている」感じのゲームのキャラとして脳内に出てくるんですよね。(って言おうとすると「いや、因果が(以下略))
ほかに、表面的な文体のことで例を挙げると、まずとにかくあまり一般的ではない言い回しと当て字を使いまくる(酷い→非道い、とか、「演算」って言葉を使いたがるとか)のが鼻につく。味付けなのかノイズなのかはまぁ読む人に依ると思うのですが、この点については私が今まで海外の小説の和訳をメインで読んでたので、この手のやたらに言葉使いに色を出してくる文体を読んでこなかった「私の修行が足りない」説が濃厚です。
そして致命的なのが地の文がとにかく鼻につくという点。どの登場人物の視点でも言い回しや語彙のレパートリーがまるっきり同じなので、その背後にある「著者のドヤ顔」が常に透けて見えちゃうんですよね。
多分なのですがこの辺はだいたい計算づくでやっているのだと思います。
この小説の舞台設定である因果律がでたらめに絡み合ったような世界、を表現するためにいちいちまどろっこしくて煮え切らない理屈の通らない話を書いていて、多分それが「作者は自分より頭の良いキャラを作れない」に対抗するための手段として機能しているっぽいんですよね。
要するに物語内の理屈をなんでもありにしてしまって、整合性とかその辺りの反対意見が成り立つ余地を残さないようにして勝利宣言している、みたいな。(って言おうとすると「いや、因果が(以下略))
いや、実際は勝ち負けもクソもないと思うので多分私が勝手にイラついてるだけだと思いますが…
だから正直言うとわざわざこうして文章を書いてまでしてこちらが酷評するのももうそれだけで自分の負け、みたいな気がするんですが、どうしてもこの気持ちを外に出したかったので書きました。(だから勝ち負けとかないから)
おわり。