魂の生命の領域

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現代思想なるものに少しだけ触れた

なぜか自分はライトな現象学オタクみたいな感じなのですが、直後に上げる千葉雅也氏の本を読んだところから、少しだけ現代思想にも興味が湧いて、ちょっとだけ本を読みました。

現代思想入門 (講談社現代新書) / 千葉 雅也

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まぁ読んでおいて損はないだろう、という感じで読みました。

軽妙な文体で少し慣れが必要でしたが、逆にこの砕けているがごまかしはない感じの文章はすごいぞと思いながらば〜〜〜っと完読しました。

デリダはすごく嫌味ったらしい文章を書くらしいことを覚えました。

ですが、この後に続く読書体験により、デリダはもうちょっと深掘りしてみようかなと思うようになりました。

構造と力-記号論を超えて (中公文庫 あ 51-2) / 浅田 彰

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ちょうど2023年の年末ぐらいに出版から40年が経ってついに文庫化される!しかも巻末の解説は千葉雅也氏!みたいなのを偶然知ったので、これも読んでおいて損はなかろうという感じで読みました。

この辺りで現代思想って…う〜ん…という感じになってきます。

著者は当時26歳だったというのを知ってビックリしました。確かに衒学的なところというか、「周知のように」とか「〜〜であることはいうまでもない」とか「〜〜に他ならない」みたいな表現を多用するのは若気の至りという感じがしますね。いや知らんてwっていう。

個人的には、第1章が一番面白いと思いました。

総集編って感じで楽しいです。(今、書きながら「ニコニコ動画流星群」を聴いてる感覚に近い、という例えを思いつきました。共感してくれる人がいると嬉しい)

第6章はちょっと…ね。

私はぼんやりこれをポストモダン思想の解説書だと思って買って読み始めたのですが、実際にはポストモダンポスト構造主義に至るまでの構造主義の解説がほとんどです。(と言ってもジャンル厨になるのはアレなのでこの辺の区別はあまりしっかりと把握してないですが)

最後の第6章がポストモダンについての実質的な導入みたいな章です。
ドゥルーズフーコーの思想をベースにした、管理社会からの逸脱によってもっと楽しく自分らしく生きようぜ!的なおそらくバブル期とも相まったであろうこれからの社会への展望が謎の歌詞を大量引用するスタイルで語られるぐらいです。

なにこれ?

とはいえ、たまに思い出して所々拾い読みしたくなる(拾い読みできる)感じがあります。1冊は家に置いておきたい感じ。

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫) / アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン

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『構造と力』を読み終えたあたりでだいぶ自分の中に溜まっていたモヤモヤがすでに本としてまとまっていることを知りました。

それがこれです。

(月並みすぎる説明ですが)あの有名なソーカル事件の背景について書かれた本です。

ja.wikipedia.org

私は一応、学生時代は物理学を専攻しており(留年した上に論文も学会発表もないカス of カスの存在しないに等しいものの)修士号を持っておりやして、ものの考え方自体はこの著者のアラン・ソーカル氏と同じ系統です。

あと訳者の一人にあの田崎先生がいてビックリしました。統計力学 I と II にはお世話になりました。

本書はポストモダン思想とそれに影響を与えた何人かの有名な哲学者・思想家の論文のなかに現れるハチャメチャな理解に基づいた数学や自然科学のアナロジー(もしくは本人曰く『厳密な等価性』)を引用してその不正確さを指摘するものです。

特に、ある種のテクストが難解なのはきわめて深遠な内容を扱っているからだという評判を「脱構築」したいのである。多くの例において、テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだということを見ていきたい。

アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン p. 8

ジャック・ラカンがやたらとトポロジーに入れ込んでいて、最終的には結び目理論についても言及し始めるところなどは、正直まぁ私も似たようなものだと思ってちょっと親近感を覚えました(私は大学院でいわゆるトポロジカル物性をやっていたので…)。

完全に意味不明なものと、明らかに間違っているのがわかるものに2種類あるように感じました。

私は量子力学にちょっと詳しい程度でそれ以外の分野はほぼ雑学程度の知識しかないですが、それでもパッと見で解釈がおかしいのが分かるものがあるのは驚きです。

あるいは、言及されている数学用語の正しい解釈は知らないけど、少なくともそのアナロジーに意味はないでしょってなるところもありますよね。

これは『構造と力』でもそれに近いものが散見されましたが、ただ言葉が似ているだけで急に関係ない分野の結論だけ借りてくる系のやつです。しかも借りてくる先は仮にも厳密な数学や(今のところ正しいとされている)物理学の結果ですから、その『正しさ』だけをいきなり移植してくるのが非常に厄介だと思います。

いくつか引用してみます。

一つ目。

しかし、われわれの見る例では、(自然科学における)確立した理論と、(ラカン精神分析学のような)あまりに漠然としていて経験的に検証しようがないような理論のあいだのアナロジーが議論されていると考えられる。このようなアナロジーの役割は漠然とした理論の薄弱さを隠すことなのではないかと疑わざるをえない。

同 p. 16

もう一つ。

不明瞭なものが全て深遠なわけではない。 (略)ある種の難解な言説は、それを理解するために読者に思考の質的な跳躍や天啓のような体験を要求しているという印象を与える。またしても、裸の王様の物語を思い出さずにはいられない。

同 p. 276

最後にもう一つ。

科学は「テクスト」ではない。 自然科学というのは、人間科学ですぐに使うことのできるメタファーを集めた倉庫ではない。

同 p. 277

本当はこれ以外にも論点はたくさんあるんですが、一番自分的に理解しやすかったところを引用してみました。

本書は、ただのトンデモ事例のコレクションといったものではなく、「これらの間違った数学や自然科学の濫用がいかに危険か」ということが主題となっています。

例えば、自然科学は人々の信念の体系にすぎず、社会的なものである、という相対主義の極端なスタンスの危険性について論じています。

ちなみに、巻末には問題となったソーカルのパロディ論文の和訳といくつかの種明かし的な解説が付されています。

本書を読む前にこのパロディ論文を読むと、完全に意味不明な文章の羅列に見えてしまうかもしれません。

しかし、本書を読んだ後で読むとそのパロディ論文が何を皮肉っているのかがよくわかります。

単に意味不明な科学用語、数学用語を羅列して「ほら、論文っぽいでしょ?」というものでは決してないのです。

要するに、 パロディ論文の大半は本書で紹介された怪しい主張の引用を肯定的に取り上げたものに過ぎない わけです。

おそらくここら辺を理解せずに「ソーカル事件」を考えようとすると、話がおかしくなります。

最後のエピローグでは、これらの政治的な側面としての問題点が語られます。

科学の客観性を疑わない合理主義に対してその特権性を突き崩す新しい勢力、みたいな感じで一部の左派が実質的に反知性的な性格を帯びてしまっているということです。

例えば従来の自然科学は男性中心の社会の中で作られてきたから、女性的な側面のある(?!)流体力学は解けない問題として置き去りにされていた、とかそいういうのです。

これによって一番被害を受けるのは、自然科学ではなくむしろ社会科学の方だということが述べられています。

要するにガバガバな理解に基づいた自然科学の引用と、自然科学の正しさも社会的な構築物に過ぎないとかいう何でもあり論によって、社会科学自体が実際に何でもありの状態になってしまいます。

そんな学問全然信用できないじゃん、となれば社会科学はおしまいです。

中身のある議論ができるようになるといいですね。